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現代

伊吹山は古くから「薬草の宝庫」として有名です。伊吹山にはシダ植物以上の維管束植物は1300種類が分付していて、そのうち薬用植物は280種類と言われています。
薬局方に収載され、医薬品として取り扱われるものから、漢方薬や民間薬として特に伊吹山周辺部での人々が現在も用いているものは100種類を越えていて、全国的にも珍しいと言えます。
伊吹山の植物は地理的、地質的、気候的な立地条件から伊吹山にのみ自生する伊吹山特産種類、北方系要素の植物、多雪型日本海要素の植物、好石灰岩植物が見られ、特殊な立地条件から、伊吹の名前が頭についた植物名が多いのも特色です。

現在も伊吹山の岐阜県側に位置する春日村では採取した薬草を天日でよく乾燥し刻み「伊吹百草」として健康の為の茶剤や浴剤として利用され、歴史のある「伊吹薬草」が基盤となり、各種の健康の為の産品が開発され地場産業に貢献しています。健康茶剤としての「伊吹薬草」の配合内容は家毎にその処方が異なると言うほど多様です。

薬草の宝庫、伊吹山系周辺の9市町が一堂に会し、平成2年から20回にわたって開催されてきた伊吹山薬草サミットでは、薬草栽培技術の習得、商品の開発および販路の確保等が話し合われて来ました。

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日本武尊とトリカブト

日本武尊の伝説は古事記(712)に倭建命(ヤマトタケルノミコト)による伊吹山の山神鎮定伝説があり、日本書紀(720)にも同じ記載があります。
その内容は「日本武尊が東征から都(当時は大和の国)に帰る途中、伊吹山の魔物(豪族?)を征伐するために伊吹山に来てみると、伊吹山を幾重にも大蛇が取り巻いていた。そこで日本武尊は大蛇を跨いで通り抜けようとした時、毒気に当たって高熱を出して倒れてしまった」というのですが、豪族等は伊吹山に生息するトリカブト毒で応戦したとも考えられています。
伊吹山に生息するトリカブトには、イブキトリカブト、キタヤマブシ、ヤマトリカブト等もあり、中国原産のカラトリカブト(ハナトリカブト)は減毒調整した上で薬用にも利用され、強心、強壮、利尿などの強い作用があります。

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延喜式「諸国進年料雑薬」

延長5年(927年)醍醐天皇の頃、延喜式50巻が完成し、その37巻には薬剤部に当たる典薬寮の諸規定があり、「諸国進年料雑薬」には貢進する薬物の種類、数量の一覧表があります。これは日本における薬草の種類と生薬の生産に関する最も古い記録といえます。各地から献上される薬草類を見ることによって、当時の薬事事情を推察することができ、また資料からは地域の植物の分布を推定できます。
近江国73種、美濃国63種が記載されていて、飛騨国の9種類など他の国に比較して抜群に多い種類数となっています。この理由は近江国、美濃国が薬草の宝庫である伊吹山を共有ししていたことだと考えられています。

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「後拾遺集」、「新古今集」

『後拾遺集』(1086年9月16日完成)の藤原実方「かくとだにえやはいぷきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思いを」、『新古今集』(1205年3月26日完成)の和泉式部「けふも又かくや伊吹のさしも草されば我がみもえや渡ちむ」などと詠まれるさしも草は伊吹山の良質のヨモギを材料とする伊吹艾でした。

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伊吹山と織田信長

織田信長が安土城にいた永録年間に、ポルトガルの宣教師と謁見した際、宣教師から「人の病を治すには薬が必要であり、そのためには薬草栽培が必要である」との進言を受け、また、もう一説には、鉄砲火薬の原料となる植物も含め移植したとも言われていますが、信長は伊吹山に薬草園の開設を許可しました。50ヘクタールという広大な薬草園には、西洋からもってきた薬草が3000種類も植えられていたと言われています。
江戸時代初期に「南蛮荒廃記」「切支丹宗門本朝記」「切支丹根元記」などに薬草園の記事が記録されています。

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信長~明治

その後の豊臣秀吉は、ヤソ教禁止令(1612年)を出して彼等を追放してしまったため、当時の薬草園の場所は不明ですが、明治時代になっても、伊吹山の薬草を採集・生産して県内・岐阜県・三重県・京都・大阪方面に出荷していたようで、61才(1928年)で書かれた小寺甚五郎の一代記でも、その頃の薬草を含む商品の全容が明瞭に知ることができます。

参考文献・資料名 著者
織田信長と伊吹山の薬草園 筒井杏正
伊吹山の薬草 ~伊吹山にはなぜ薬草が多いのか?~ [1]~[4] 岐阜薬科大学名誉教授 水野瑞夫
薬草の宝庫伊吹山 伊吹山薬草サミット実行委員会発行

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